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: 非可換空間の定義 : 曲面の非可換変形のいくつかの例について : 目次   目次


序説

物理量を(微分)作用素のスペクトルと見ると (原子の輝線「スペクトル」の問題などで) 実験に良くあう結果 が出せることが認識されてからほどなく、 作用素の非可換性が問題になって来た。

これは数学の言葉でいうと、次のような問題を考えていることにあたる。

可換理論では $ \operatorname{Spec}A$$ {\Bbb C}$-値点を考えるということは、$ A$ の線型表現 における同時固有値 ないし固有スペクトルを求めることに対応しており、 $ A$ の性質はしばしば $ \operatorname{Spec}A({\Bbb C})$ を調べることにより完全にわかる。 $ C^*$ 環の理論においてもこの現象は顕著であり、 Gel'fand による表現定理によれば、 可換 $ C^*$ 代数はその同時スペクトルの構造から もとの環の構造が復元できることがわかる。 これらの事実はいずれも 「互いに可換な行列の族は、そのおのおのが対角化可能ならば、 同時に対角化可能である」という良く知られた事実が元になっている。

一般の ``可換な'' (つまり、通常の)スキームについては $ {\Bbb C}$ のような ひとつの万有体での線型表現で話が済む訳ではないが、 上のような精神は受け継がれているといってよい。

一方、非可換な環を扱う際には全く事情が異なる。 互いに可換でない行列を同時に対角化するのは一般には不可能であり、 正準交換関係

$\displaystyle px-xp=1
$

を満たすような行列 $ x,p$ はどのような場合においても 同時固有値をもち得ない。 このことは、これら二つの物理量を同時に観測することは一般には不可能であることを 示唆している。

このような事態を解決するには、例えば次のような手立てが考えられる。

  1. 近似をとる。量子力学に現れる非可換性(可換な理論からのずれ)は わずかであるので、それを無視して可換理論で話を進める。巨視的理論では 大抵の場合これで十分であるが、微細な世界を研究するためには そうも言っていられない。

  2. 互いに可換な変数のみを観測する。 いくつかの変数は互いに可換であるから、 それらのみを観測して満足する。でもそれだけでは済まないだろう。

  3. amplitude を考える。環の言葉で言うと、環 $ A$ から $ {\Bbb C}$ への環準同型 は少ないので、線型写像("amplitude") $ \varphi$ を相手にする。 $ A$ が可換な時には $ \varphi$ は準同型の線型な重ねあわせになっているので、 $ \varphi$ を「 $ \operatorname{Spec}A$ の各点に複素数の重みをつけたもの」と解釈できる。 あるいは物理的な言葉を使えば $ \varphi$ は古典的な状態の重ねあわせである。 $ A$ が可換でない時にもおおむねそのような気持ちで取り扱うとある程度解釈 できる。

「確率解釈」のキーワードで語られる三番目のアプローチは最初は奇異な印象を 与えるものの、成功をおさめて量子力学の骨格の一部をなして来た。

しかし、これは局所的な、相空間が近似的に $ \mbox{${\Bbb R}$}$$ ^{2n}$ と思える時の話であって、 相空間が「曲がって」いる時にどうなるかについては十分分かっているとは言えない。 $ n$ 変数微分多項式のなす環 $ D$ の「スペクトル」 (量子論的な世界)が近似的に $ R^{2n}$ を 与えて古典力学的な平坦な世界を見せているように、 古典的なリーマン多様体の世界(重力の働いている世界)を与えている 「非可換な空間」があってしかるべきである。 非可換幾何学はそのような問題を取り扱おうとする。 目標は非可換の世界に可換理論と同等以上の理論を見出すことである。 可換理論で言うところの「空間」は全て「非可換空間」に置き換えたい。

但しこれにははじめから困難が見えている。例えば非可換空間の「モデュライ空間」 も非可換なものに置き換えたいのであるが、前述の通り 非可換空間には十分な点がないため、「モデュラス」が十分にはないことになる。 すなわち、「ひとつの」非可換空間を取り出すのは一般には不可能で、 実際に扱えるのは それらの「重ねあわせ」としてのモデュライ空間上の amplitude だと言うことになる。

そこでひと安心か、と思うとそうではなくて、 今度はモデュライ空間自身にもこの問題が当てはまる。 モデュライ空間自身が「ひとつで」存在するのは幸運であって、 一般にはおそらくそうではない。(これは無限に続く)

この状況をうまく処理する方法があるのかどうかは定かではない。 (告白しなければならないのだが、私は神秘主義者である。 いままでの殻を破ろうと思って外に出てみると、 そこは数学の世界ではなかった、と言うことがしばしばある。 ZFC(Zermelo-Fraenkel の公理+連続体仮説)から出発する様な、 大きな入れものをつくってその中で遊ぼう、と言う縮み思考の立場は 放棄され、 神、界王、界王神などと必要に応じて作っていく トリヤマアキラ的な方法が検討されねばならないのかも知れない。)

が、そう言っていても仕方がないので、 とりあえずどっかの段階で幸運な状況が起こっているとして先に進まねばなるまい。

はじめのステップは非可換多様体を定義し、その性質を調べることである。

この小文では可換スキーム、とくに曲面の非可換方向への変形の話題を 中心にして、非可換多様体がどのようなものになるかについて調べる。 まず非可換空間および非可換スキームの定義をRosenberg [7]に従って 述べる。(2,3節。) 次に可換スキームの非可換スキームとしての無限小変形を コホモロジーの言葉を用いて表現し、 それが三種類に分かれることを示す。(5節) そのうちのひとつは良く知られた 可換スキームとしての変形であり(6節)、 一つは交換関係の変更により得られる変形である (7節)。 ここでは $ \Bbb P^1\times X$ と二次元トーラスの 二つの例をとりあげてこの変形について考察する。

最後の一つは幾何学的ブラウアー群に関係した変形である。 この部分については今少し研究が必要である(9節)。

なお、余談であるが、「非可換-」はしばしば「量子-」と呼ばれる。 それにはいくつか理由があって、

  1. 「非可換-」と言う呼び方は紛らわしく、混乱を生じやすい。 例えば「非可換群スキーム」と「群非可換スキーム」とを区別しなければならなくなる。
  2. 「非」可換という言葉が否定的なイメージを与える。
等々。もっともなところもあるのだが、「量子」数学は量子論の思想を盛り込んだ 数学を(必要なら数学を一から書き直したものを)指すべきであろう。 (それが最終的に「非可換」の方向なのかどうかもわからない。) そういう意味でこの小文では「量子」と言う言葉は使わずにもっぱら 「非可換」と言う言葉を用いることにする。



平成15年9月1日